略歴
大学時代は、共にプロレス同好会に所属。住谷(HG)は同志社大学で、リングネームは「ギブアップ住谷」。一方、出渕(RG)は立命館大学でプロレスラー新崎人生をもじった「チン先真性」の名で活動していた。両大学のプロレス同好会は定期戦などで交流があり、しばしば顔を合わせていた。共に学内チャンピオンを獲得した経験を持つ2人は意気投合し、1997年10月にお笑いコンビ「レイザーラモン」を結成。コンビ名は、スコット・ホールがWWF時代に名乗っていたリングネーム「レイザー・ラモン」に由来する。
卒業記念でエントリーした「今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」で福笑い大賞を受賞。その後2丁目劇場のオーディションライブ「SABIKI」などに出演し、腕を磨いた。大学卒業後はそれぞれ就職し、住谷は生活協同組合コープこうべ、出渕はカーディーラーで働いていたが、お笑いの道を諦め切れず、程なく脱サラして吉本興業入り。1999年、バッファロー吾郎プロデュースの「爆笑新ネタ逆転満塁ホームラン寄席」に初出演し、本格的にプロとして活動を始めた。吉本の同世代では珍しいNSC非出身者。
同年10月、初のレギュラー番組となる毎日放送「クヮンガクッ」がスタート。しかし翌3月、「悲しみの豆板醤事件」が仇となり降板した(後述)。2000年「ABCお笑い新人グランプリ」では審査員特別賞を受賞。また同年、フジテレビ「新しい波8」にも3度出演。しかし、後に同番組から派生して開始した「はねるのトびら」のレギュラーには選出されなかった。
2001年11月、レイザーラモンは揃って吉本新喜劇に加入。いずれも若手ではセリフが多い方で、共に様々な役柄を演じた。
悲しみの豆板醤事件
1999年に始まった、レイザーラモンの初レギュラー番組「クヮンガクッ」(毎日放送)。しかし番組内では空回りすることが多く、レギュラー当落線上に追い込まれた。そんなある日、番組のスタッフに誘われて焼肉店に食事に出かける事に。食事が終わりかけの頃、スタッフは2人の不甲斐励すべく「もう一度チャンスをやる。ここで意気込みを見せてみろ」と一喝した。すると2人は勘違いし、まず出渕が突然テーブルに置いてあったコチュジャンを一気飲みしてみせた。あまりの辛さに悶絶する相方の姿を目の当たりにした住谷(現・HG)は「俺も何かせなあかん」という衝動に駆られ、まずロースターに手を押し付けようとしたものの、既に肉を焼き終わった鉄板は冷え切っていた。ならば、と店の窓から飛び降りようとしたものの、店はビルの2階にあり、インパクトがない。追い詰められた(?)住谷は、テーブルに置いてあったコチュジャンのビンを手に取ると、それを眼球に擦り付けるという暴挙に出た。当然の如く住谷は「熱い~!!!」とその場で悶絶。ひたすら洗面所で目を洗い続ける羽目になった。
結局、レイザーラモンは「クヮンガクッ」のレギュラーからわずか3回の出演で降板することになってしまった。
ビッグポルノ
2003年、レイザーラモンは小籔千豊と組んで、ビッグポルノというユニットを結成、様々なパフォーマンスを披露している。
堂山フー!!!
2005年5月1日、レイザーラモンは関西のゲイカルチャーの中心地として知られる堂山町のクラブ「Explosion」で、単独ライブ『堂山フー!!! ~Do Your Man Who?』を敢行。なかやまきんに君をトークゲストに迎え、レイザーラモンのコント、漫才などネタ見せの他、ビッグポルノのVTR作品などを上演した。