メンバーについて
初代ミスワカナ(本名:川本キクノ、1910年10月20日 - 1946年10月14日)は、鳥取県気高郡海徳村出身(現・鳥取市)。1915年頃から父の巡業に同行するかたわら安来節を身につける。1920年に9歳で二代目河内家芳春に入門し、河内家小芳を名乗る。
玉松 一郎(たままつ いちろう、本名:河内山一ニ、1906年2月 - 1963年5月30日)は大阪市淡路町出身。1923年に大阪貿易語学院を卒業後、音楽家を志し、無声映画の伴奏をするオーケストラでチェリストを務める。
ワカナは1925年に平和ニコニコとコンビを組み千日前楽天地に出演し、同地で一郎と出会い恋に落ちる。しかし、1928年ワカナは郷里に戻り結婚して一女をもうける(後の三崎希於子)。翌年1929年に大阪に戻って一郎と再会後、中国青島へ駆け落ちする。帰国後の1931年、ワカナは都家若菜に改名し、一郎とコンビを組み「若菜万歳一座」の名で九州地方へ巡業する。
1937年3月に吉本興業へ入社し、コンビ名をミスワカナ・玉松一郎とする。以降寄席、ラジオ出演、レコード録音を盛んに行う。1938年1月には「わらわし隊」の一員として中国戦線へ慰問を行う。1939年4月、新興キネマ演芸部に引き抜かれ吉本興業を突然退社し、大騒動を巻き起こす。1940年、政府の敵性語禁止令によりミスワカナから玉松ワカナに改名する(他に松竹ワカナとも名乗っている模様。この時ワカナは「ミスワカナがだめならメスワカナにしましょうか」と言ったという)。その後ワカナはある妻子持ちの俳優に夢中になり、やがて一郎と離婚。1946年、西宮球場での野外演芸会の帰りに阪急西宮北口駅のホームで、ワカナは心臓発作を起こし36歳の若さで急逝する。ヒロポンの中毒と過労が原因だったと俗説されているが、当時の付き人の女性の「死ぬ二年ほど前から薬物は止めていた」との証言もあり直接の原因ではないだろうと言われている。
ワカナが世を去った後、一郎は2代目ワカナ(後のミヤコ蝶々)とコンビを組むが、半年で解消。その後一郎は、3代目ワカナ(初代ワカナの実の娘である三崎希於子)、4代目ワカナ(後の河村節子)とコンビを変えて、1963年に一郎が亡くなるまでワカナ・一郎としての漫才を続けたが、もはや全盛期の輝きを取り戻すことはなかった。
著書には「旅のつれづれ」がある。これは1946年に地方巡業の際に書き記した日記を著書として弟子の松森和夫より公表された。
漫才師のミスワカサ(相方は島ひろし)、女優の森光子は初代ワカナの弟子である。