略歴
アルバイト先のホストクラブで3人は出会った。ルックスの良いアイドル志望のデビットと、ミュージカル役者&ダンサー志望だったちんにそれぞれヒロミが声を掛け、お笑いでの芸能界入りを誘った。「自分1人では無理だが、ルックスのいい2人と一緒なら…」と考えたヒロミは、必死で彼らを口説き落としてB21結成にまで漕ぎ着けたという。オシャレ感のない当時の若手芸人らとの差別化を図るため、衣装はDCブランドにしようというのもヒロミの発案によるものであった。結成当初のグループ名は「ヒロミズだぁ」。「だぁ」は『お笑いスター誕生』での山田康雄の呼び込みから引用したという。当初のヒロミの芸名は、父親の職業からカーペンターヒロであった。
その後、アルバイト先の新宿のショーパブの客から、ビートたけしと星セントを紹介された。敢えて尊敬するビートたけしではなく星セントを選び、師事。その理由は、3人で勝負したかったからだという。トリオ名は、アメリカの第2次大戦中の超重爆撃機「B-29」と、ヒロミが21歳直前の時期に結成した事に由来する(師匠である星セントが命名)。しかし、一部の年配視聴者層からは、そのまま「B-29スペシャル」と間違えられることも多かったらしく、また、「D-51スペシャル」と言われたこともあったらしい(ヒロミ談)。
最初の新宿のショーパブから、当時最も人気が高かった六本木のショーパブ「バナナパワー」に移籍後に評判となった。店のスタッフがグッズを製作するなど、他の出演芸人が羨むほどのバックアップを受け(浅草キッド談)、新人ライブで勝ち抜いて名を馳せて行く。
その後、テレビ界へ進出すべく、横山やすしが司会を担当していた番組『ザ・テレビ演芸』に出演。「飛び出せ笑いのニュースター10週勝ち抜きシリーズ」にて見事に10週勝ち抜き、第4代目チャンピオンを獲得した。最終週で披露したネタ「六本木ステーション」は、審査員を担当していた糸井重里をして「ネタだけなら今売れている芸人の誰にも負けない」と言わしめる。
1988年頃から巻き起こったお笑い第三世代ブームに乗り、一躍、西のダウンタウン、東のウッチャンナンチャンと並ぶ人気お笑いグループとなった。当時、ダウンタウン・ウンナン・B21の3組の持ち回りでレギュラーの入れ替えが行われる番組が多くあった。1990年にゴールデン・アロー賞芸能新人賞を受賞。同年、歌手としてテイチクレコードから『お世話になりました』(井上順のカバー)をリリース。『ふざけろ!』(ビデオ発売済)で映画主演デビューも果たす。
3人でのテレビ番組共演がなかった時期にも、1990年~1997年までは年に一度は『ONE OR EIGHT』というB21のネタ披露ライブを継続していた。『ONE OR EIGHT』の第1回~第5回までは、フジテレビにて『B21スペシャルの急降下爆撃』というタイトルで放送されており、1に関してはビデオも発売されている。しかし、デビットが役者に専念すると宣言したことにより、ライブ開催は中断。2004年、7年のブランクを経た後にライブは再開されたが、再度沈黙の状態に入る。
2004年7月24日、フジテレビで放送された『27時間テレビ』において、コーナー「生・笑わず嫌い王決定戦」に出演。デビュー当時のコント「修学旅行」を披露し、久々に3人でのテレビ番組共演を果たした。
現在、特に主だった共演があるわけでないのにもかかわらず未だ解散していないその理由は、ヒロミ以下メンバーがB21に愛着があり、原点として大事にしているからである。実はメンバー仲も悪くはない。かつて、フジテレビの番組『1or8』出演の際に火傷を負って入院をしていたヒロミは、見舞いに来た父親に「怪我をしたのが2人じゃなくて俺で良かった」と語ったという。