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爆笑問題(ばくしょうもんだい)は、日本のお笑いコンビ。所属事務所はタイタン_(芸能プロダクション)。
メンバー - 太田光(ボケ担当、サブリーダー)
- 田中裕二(ツッコミ担当、名目上のリーダー)
芸歴 - 日本大学芸術学部在学中に出会い、中退後の1988年結成。ライブハウス『ラ・ママ』でデビュー。その場で太田プロにスカウトされる。ホンジャマカ、浅草キッド等と共に「お笑い第三世代と第四世代の狭間の世代の代表」と言われる。
- 1988年、『笑いの殿堂』でテレビデビュー。以降順調にレギュラーを増やし、若手芸人のホープとなる。
- ショートコント全盛の時代に、「生徒指導室」「東京の不動産屋」などの作り込まれたコントで注目を集めるが、次第に漫才を主体とするようになる。太田の毒に満ちたボケと田中のストレートなツッコミという正統的漫才で人気を博した。
- 1990年、太田プロから独立。しかし、この独立は一方的に辞めるかたちであった為、太田プロの怒りを買うこととなり、一時的に仕事がなくなりテレビからも姿を消す。いわゆる“干された”状態になった。
- 辞めた理由は、自分達のやりたい仕事がしたかったから、人気者となった2人を当時の担当マネージャーが唆した、など諸説あるが、このことについて自ら話したりネタにすることはなく、周りもその話題に触れることはない。
- この時期は、田中は主にコンビニのアルバイトで、太田は妻・太田光代のパチンコやパチスロでの稼ぎで生計を立てていた。太田は暗算が非常に苦手で、レジのバイトをすると客から苦情を言われないようにとお釣りを多く渡すなどまともにアルバイトが出来なかった。
- しかし三年間全く仕事がなかったわけではなく、オムニバスドラマ番組『悪いこと』では脚本(太田)・出演(太田、田中)、オムニバス映画バカヤロー!4(森田芳光プロデュース)の中の一本では監督(太田)を務めた。また、営業として数多くの予餞会でネタ披露をした。自称「日本一予餞会に出た芸人」。
- 1993年、自らの芸能事務所「タイタン」を設立。社長には太田光代が就く。
- この年からテレビ復帰。漫才コンビとして初めてNHK新人演芸大賞受賞。
- 1994年、『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』で初の十週勝ち抜いてレギュラーとなり、『タモリのSuperボキャブラ天国』内の「ボキャブラ発表会 ザ・ヒットパレード」に出演。
- この番組で、ネプチューン、海砂利水魚を始めとする当時キャブラーと呼ばれた若手芸人たちの出世頭となり、再ブレイクのきっかけをつかむ。『黄金ボキャブラ天国』では初代名人に。当時のキャッチフレーズは「不発の核弾頭」。
- 1994年、日本映画プロフェッショナル大賞・新人奨励賞を太田光が受賞
- 1996年、国立演芸場花形演芸会 銀賞受賞
- 1998年、国立演芸場花形演芸会 金賞受賞
- 1998年、ゴールデン・アロー賞芸能賞受賞
- 1999年、浅草芸能大賞新人賞受賞
- 2000年、笑芸人大賞 銀賞受賞、ちなみに金賞はビートたけし
- 2006年、万年筆が似合う著名人 芸能・ファッション部門を太田光が受賞
- 2006年、芸術選奨文部科学大臣賞放送部門受賞
- 放送部門のバラエティージャンルからは史上初の受賞となった。理由は「タモリ、たけし、さんま、紳助の存在が圧倒的な中、10年以上もポジションを得て常に成長しながら抜群の安定感を見せている」とのことである。この受賞は、受賞発表の直前に急逝した久世光彦の強い推薦によるものという。二人が進行するテレビ番組『爆笑問題のススメ』に久世光彦がゲスト出演した(日本テレビ系では2005年12月10日深夜放送)ことがきっかけで、久世が「あの二人にあげればいいじゃないか」と言い切ったといわれる。

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