来歴
代々医者の家系に育ち、母は近年まで現役の産婦人科医、父は商社マン、兄弟を始め一族も殆ど医師。山形県立新庄北高等学校卒業後、家業を継ぐべく日本大学医学部に進学させられたが、教授と相容れなかった(本人曰く、風貌を理由にいじめを受けた)事と、モダン・ジャズに耽溺して学業が疎かになった事から、藝術学部に転部。同級生には宍戸錠らが居る。在学中よりボーラ・レイ(米騒動、の意)と名乗って、クラブのMCとして業界では知られた存在になった。
そこで本格的に芸人を志し、高峰(玉川)一門の漫才師・リーガル天才に弟子入り。コロムビア・トップ門下で、共にスケベ芸を看板にする(後の)青空はるおと漫才コンビ『大空はるか・かなた』を組み、そこそこ売れたものの、東京漫才界の対立騒動に巻き込まれ、長続きせず解散。
と同時に、医者が主人公のテレビドラマ『ベン・ケーシー』のパロディで、エロ漫談家ケーシー高峰に転身。セニョリータ、グラッチェなど怪しげなラテン系単語と、C調かつ軽妙洒脱な下ネタを駆使し、セミレギュラーに抜擢された『大正テレビ寄席』等を通じて、お茶の間の爆発的人気を博した。
1968年には東京12チャンネル(現テレビ東京)系『おいろけ寄席』の司会に登用され、テレビのコメディリリーフとして引っ張りだこになる。またピンク映画のヤブ医者役のみならず、渋い脇役のこなせる性格俳優としても、映画、舞台を問わず活躍。『夢千代日記』(1981年~)でのシリアスな演技が高く評価された他、『木更津キャッツアイ』(2002年)ではオカマのヤクザという極めて難しい役柄を演じてみせた。
ノーマルな役柄の仕事が増えるにつれ、その鬱憤を晴らすが如く高座には更に磨きがかかり、従来の都会的なスタンダップ・コメディ路線から、丸出しの山形弁で恫喝まがいの客いじりをする泥臭い芸風に進化して、爆笑王の地位を不動のものにする。常連客も「夏みかん!」「ゆず!」等の掛け声で応酬するのが常。
2005年には舌癌に罹患したが、完治させ復帰。療養中にも関わらず予定されていた独演会を敢行した際は、黒板を前に一言も喋らず舞台を務め上げ、身振り手振りだけで観客を魅了した。
観光使節(サンシャイン大使)に任命されている福島県いわき市の自宅では、在宅時に手製の旗を掲げている。ダンディズム極まる私服のファッションセンスでも著名。