来歴
福島県南相馬市出身。1953年に上京し、松鶴家千代若・千代菊に入門。歌手修業を積みつつ理容師免許を取得し、1967年に三代目松鶴家千とせを襲名。トレードマークのあごひげとアフロヘアーは自前でセットしていたが、最近はカツラを使用している。
時代劇ネタの他、ジャジーなスキャットに民謡や邦楽を融合させた独特の和風メルヘンの世界を築き、客をどん引きさせていたが、自分の芸が通じないボヤキで発した「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ~」の苦し紛れのギャグが受けるようになり、1974年頃「ヘヘェ~イ、シャバダバダディ~、イェーイ。俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けだった。父さん胸やけ、母さん霜やけ」と哀愁を込めて歌いかける、『夕焼け小焼け』の替え歌漫談で突如ブレイクした。
1975年にシングルレコード『わかんねェだろうナ』をリリースし、約140万枚を売り上げたhttp://www.mbs.jp/shittoko/data/03_06_07/4.html。その余勢を駆って、1976年には東映の大ヒットシリーズ『トラック野郎』第3作に「わかンねえだろうナ」の行燈を掲げたトラック運転手ニヒル役で出演し、OPシーンを飾る。同年、放送演芸大賞(漫談部門)受賞。
ちょうど同じ頃、共に長い下積みを経て大ブレイクした歌手の子門真人とは、ソウルファッションが似ていたため、しばしば混同されたという。余りに売れ過ぎて心身共に疲れ果ててしまい、一時休業していた点でも共通する。
1990年頃、NOVAのCMでナレーションと歌を担当し、再び脚光を浴びる。
寄席高座の他、美声を活かして歌手や司会者としても息の長い活動を続ける一方、森進一が率いた「じゃがいもの会」のパロディ「全国さつまいもの会」を東京の喜劇役者仲間と共に結成し、刑務所、老人ホーム、海外在留日系人等の慰問や、阪神・淡路大震災のチャリティコンサートなど、ボランティア活動にも精力的に取り組んでいる。