酒井くにお・とおるのプロフィール、ニュース、ブログ、画像、ウェブ、動画、2chなどの最新情報

酒井くにお・とおる(さかいくにお・とおる)は、松竹芸能所属の兄弟漫才コンビ

メンバー

  • くにお(本名:酒井 国夫、1948年5月3日 - )
  • とおる(本名:及川 幹男、1951年5月12日 - )
共に岩手県水沢市(現・奥州市)出身。

来歴・人物

兄のくにおは地元で秀才の誉れ高く、東京教育大学に現役合格。全盛の全共闘運動に加わり日々機動隊と戦っていたが、たまたま入った浅草松竹演芸場で見た社会派コント『コント・コンビネーション』(コント・アンバランス)の風刺劇に魅せられ、リーダーの南良雄(現在のさがみ良太)に弟子入り。大学は中退してしまい、出番をフケた大空かんだの代役を経て、城後光義(現在のゆーとぴあ・ホープ)らの女装コント集団に混じって初舞台を踏む。間もなく友人の伊原某と『コント・コマーシャル』を結成し、ストリップ劇場の幕間で修業を積んでいた。
弟のとおるも高校卒業後上京し、千代田テレビ技術学校で学ぶうちに芸人志望が高まり、ストリップ劇場で窓口や大道具のアルバイトをしていたところ、別の劇場で働いていた兄と偶然再会。相方に逃げられた兄に誘われて、さがみ良太門下に兄弟で直り、正式にコンビを結成した。
コンビ名は『コント・コマーシャル』を引き継ぎ、花柳流日本舞踊の素養があるくにおに合わせて、振袖・日本髪でタップダンスを踊ったり、ローラーゲームよろしく舞台を走り回ったり、上野動物園に来たばかりのパンダの着ぐるみで暴れたりと、体を張った時事物ドタバタコントだった。
これが吉本興業の目に留まり、1974年から上方に移ったが、ナンセンス・コントの芸風自体が漫才主流の当時の関西では全く受け入れられず、翌年には契約解除されたところを、松竹芸能に拾われる。『酒井くにお・とおる』に改名した頃、通天閣劇場の舞台で極度の緊張から台本を忘れてしまったくにおが、咄嗟に「とおるちゃん!」と連呼して急場を凌いだことから、定番のギャグが生まれた。
関西弁をマスターし(もちろん細かいイントネーションは若干違うが、それも「味」として認知される域まで来ている)、飽きずに努力した結果、1977年のNHK上方漫才コンテストでは優秀敢闘賞、1981年の『お笑いスター誕生』では審査員からマンネリを酷評されつつも馬鹿馬鹿しさを武器に7週勝ち抜くが、体力を消耗するコントからしゃべくり漫才に比重を移すに従い、フェードアウト。
その後も中堅扱いのまま永らく不遇をかこっていたが、ある日、水玉れっぷう隊目当ての女子高生ファンに向かってとおるが放った「ここで笑わんと、もう笑うトコ無いよ」「忘れて忘れて~」「こんな話二度とやらんわ」等の、捨て鉢な客いじりが突如脚光を浴び、自虐的ボヤキ漫才の第一人者の地位を確立した。気が付けば、ダイラケいとこいの後を継ぐ、現役最ベテランの兄弟漫才コンビになっている(二番目は凸凹一番・二番)。漫才を離れて、小劇団の定期公演も行っている。
なお、くにおのオカマしゃべりは、女装コント時代に身に付いた癖や、岩手訛りを誤魔化すためのものであるが、『誠のサイキック青年団』で竹内義和らが「くにおは本当にゲイ」というネタを執拗に吹聴したため、同番組のリスナーの間で「くにおゲイ説」が実しやかに噂されるようになった。ますだおかだも騒動に参戦して「くにおが女便所に入るのを見た」等と流布し、くにお本人も「そのケがあるかも知れない」「ヅラではないがホモ」等と悪乗りして、噂を打ち消すどころか逆に、自ら進んで火に油を注いだが(北野誠やますだおかだは、くにお・とおるから見て松竹芸能の後輩である点に注意)、しかしくにおが既婚者である事からも自明な通り、かつて竹内らが強弁していた「小泉今日子エイズ説」と同様の都市伝説に過ぎないことを、改めて銘記すべきであろう。
酒井くにお・とおる の ニュース
北野誠、お笑いプロデュース会見で“角座閉鎖”ネタ拒否!!
(オリコン)- 2008年4月5日(土)6時30分 - エンタメ総合

酒井くにお・とおる の 画像
酒井くにお・とおる の ブログ
酒井くにお・とおる の 動画
酒井くにお・とおる の ウェブ
酒井くにお・とおる の 2ちゃんねる
Webサービス by Yahoo! JAPAN