略歴など
芸能界に入る以前は、東京都北区在住の両親の経営する米屋で育った。地元区立小中学校を経て日大豊山高校入学。演芸が好きで中学高校時代に浅草等に通う。付属校対象による日大統一試験により内部推薦で日大法学部入学するも学園紛争のあおりでレポートのみ(本人がメディア・著作で語ったところによると学園紛争がなかったら卒業できなかった)で大学を卒業。1971年、萩本欽一に弟子入りを求めて押しかける。しかし、3日間いた後、萩本の一言から浅草修行へ。10年ほどしてから萩本の下に舞い戻り、以降は欽ちゃんファミリー入り。清六の人柄に絆された萩本はバックアップをしていく。
以来飾らないボケキャラで、お茶の間を賑せている。とくに『欽ちゃんのどこまでやるの!』「村の時間」のコーナーの仕切り役"たよりないアナウンサー"(番組では「あぜ道カットでお馴染みの甘栗坊や」のちに「稲穂カットでお馴染みの団栗坊や」と名乗っている)、『クイズ・ドレミファドン!』のリポーター「セイロクマン」が当たり役となり、当時の人気お笑いタレントの一員となった(それ以前にも『スター誕生!』のコーナー司会で、ボケキャラ振りを見せてくれていた)。しかし、テレビ番組等のレギュラー出演は1996年以降ほとんどなく、主に現在では単発番組にしか顔を見せていない。
萩本は弟子が一人もいないと公言していたが、最近になり唯一の弟子として認めた。
熱烈なプロレスファンであり、現在でも後楽園ホールなどにおける清六の目撃情報が頻繁に出る。そのため各種プロレス・格闘技メディアはインタビュー依頼を何度も出しているが、清六は頑なに断り続けている。
その他
- 萩本が自主制作映画『手』(1970年 浅井企画)を自主上映した際、清六は頼まれもしないのに呼び込み役を引き受け、街頭で宣伝した。萩本はこの一件で清六を認めたという。
- コント55号の付き人当時、日劇公演の際、坂上二郎の楽屋入りが大幅に遅れたことがあり、萩本から万一の際には代役として起用する旨を聞かされ、身構えたものの結局坂上が出番に間に合ってしまったため、代役の話はなくなってしまった。
- 「スター誕生!」には素人として出演していたが、既に浅草のコメディアンとしてプロデビューを果たしていた。フランス座で同僚だったビートたけしは、「何であいつが素人としてテレビに出ているんだ」と思って見ていた。
また、たけしはたけし軍団のボケに関する芸のことを語ったときに清六を引き合いに出し「あいつも理路整然に語っていた」と話した。
- 読売ジャイアンツの投手だった斎藤雅樹は、入団当時清六の全盛期だったため、渾名を「セイロク」にされてしまった(原辰徳が最初に監督に就任した際も、コーチに就任した斎藤雅樹の事を「セイロク」と呼んでいた)。
- 上記にあるプロレス会場のほか、お笑い芸人の舞台を頻繁に見に行くため目撃情報が絶えない。放送作家の高田文夫はいつも必ずどこかの客席にいる清六を『客席王』と称している。
- 音の高さや音程を全く取れない、極度の音痴としても知られている。芸人としてのネタではなく、実際に音感がほとんどない。テレビ番組で音痴を矯正する企画に出演したことがあるが、結果ほんのわずかに矯正されたものの、音痴は治らなかった。
- 小堺一機が2008年3月22日放送のラジオ番組「コサキンDEワァオ!」で語ったところによると、清六は深夜の0時から生放送のラジオ番組「ザ・欽グルスショー」の現場にいつも23時56分頃に現れ、スタッフを困らせていた。そのため、ある時、ディレクターの一人が清六に「せめて連絡くらい入れてほしい」と注意すると、清六は「なんで? 僕、間に合うと思ったからねえ。」と答えたという。また、別のラジオ番組(玉置宏の笑顔でこんにちは)に清六の代役として出演した時に小堺が聞いた話によると、その番組でも清六は本番ぎりぎりに現場入りしてスタッフを困らせていたという。なお、他の番組もそうだったかどうかは不明。