プロフィール
生い立ち
福岡県福岡市瓦町(現博多区上川端町)出身。キャナルシティ博多の目と鼻の先の地である。実父は地元の実業家であったが、早くに病死し、以後、貧窮をきわめた。福岡県立福岡高等学校定時制課程普通科卒業。高校のころは、菓子店石村萬盛堂で働くなど努力して生計を支えていた。高校の頃では、陽気で努力家でもあったといわれる。RKB毎日放送の劇団に所属するも、1961年に俳優を目指し上京する。魚河岸をはじめとしてなどさまざまな職業を経験し、トヨタ自動車の販売ディーラー・横浜トヨペットのセールスマン時代に公募により植木等の付き人兼運転手となり、その後芸能界入りを果たす。
なお、セールスマン時代の成績はめざましく、初任給1万円の時代に月給12万円を稼いでいたという。それを生み出す顧客とのセールストークや会社内での上司との丁々発止のやりとりは周囲の人気に押し上げられて(さらに後に数々のギャグの礎となり)、芸人を志すに踏み切った。ちなみに、植木等の付き人兼運転手時代の給料はわずか7000円だった。
デビュー
デビューは『シャボン玉ホリデー』。きっかけは、同番組に出演していた植木についていった際、最年少の小松青年はスタッフにからかわれた。その時飛び出したアドリブ「知らない知らない知らなぁ~い」がプロデューサーの目に留まり、翌日の収録時には台本に出番があったという。
その後キャバレー (風俗)のホステスの会話や学校の担任など、身近な人からヒントを得たギャグや、レギュラー番組のコーナーからヒットした「電線音頭」(1976年発売)「しらけ鳥音頭」(1978年発売、60万枚を売り上げた)、物真似(十八番は淀川長治)で一躍人気コメディアンとなる。
正式なコンビというわけではなかったが、伊東四朗との息のあったコンビは1970年代を代表するギャグの一つとして今なお語り継がれている。『みごろ!食べごろ!笑いごろ!』や『笑って!笑って!!60分』では「小松の大親分」など数々の名コントを演じた(先の「電線音頭」や「ずんずんずんずん~小松の大親分♪(ニントス~はここから)」など)。
「お呼びでない」
植木等の代表的なギャグである「お呼びでない」が生まれるきっかけを作ったのも小松政夫である。植木等の付き人時代、植木が出演していた生放送の『シャボン玉ホリデー』でのショートコントの最中、勘違いして出番前ではないのに「出番です」と植木に言ってしまい、植木がつい舞台に出てしまった。当然周囲は植木の登場に唖然としたが、その瞬間に植木は機転を利かせて「お呼びでない・・・こりゃまた失礼致しました」とアドリブを放った<ref name=aoshima>青島幸男 『わかっちゃいるけど・・・―シャボン玉の頃 』(文藝春秋、1988/09)ISBN 4163426205 。傍で見ていたプロデューサーは大爆笑し、以後、毎回のように使われるようになった。
なお上記のエピソードについて、小松自身はこのような事実はないと否定的な発言をしている。植木等の「お別れの会」の弔辞でも、「お呼びでないは小松がきっかけだとオヤジ(植木)さんはおっしゃっていたようですが、私はオヤジさんの出番を間違えるようなことはしていないと思うのです。」と述べている。そして「事実でなくても自分のために作ってくれたエピソードであり、本当に感謝している」とも語っている。
「お笑い」の遍歴
一言で「お笑い」といっても、彼の携わった笑いは時代と共に若干変化している。
1960年代はクレージーキャッツの取り巻きの一人として活躍した、テレビ歌謡バラエティ全盛時としての笑い。
1970年代は本来畑違いである軽演劇出身の伊東四朗との掛け合いによる、B級テイスト溢れるコント系バラエティとしての笑い。
1980年代はタモリ、団しん也、イッセー尾形等といったピン芸人達との交流で培ったサブカルチャーの要素が入った、一風洒落た感じの笑い。
1990年代以降は笑いそのものからは遠ざかり、本格的な俳優路線に入り現在に至る。
現在もバラエティやテレビドラマ、舞台など多方面で活躍中である。伊東四朗が小松を「こんなに引き出しのある人はいないんだから」と評したことがあるが、数多くのギャグの引き出しも健在である。