来歴
1966年、営業先の熱海つるやホテルで「机」の一人コントを考案した萩本が、早速以前出演していた浅草松竹演芸場に売り込みをかけようと準備をしていたところ、たまたま浅草フランス座時代に幕間コントで競演した坂上から電話があり、この電話で坂上の助演が決定。10月松竹演芸場の前座として「机」を演じたところ、反応が今一つだったため、二日目に役を入れ替えたところ好評を博し、三日目には正式に香盤表に載る事となり、この時支配人から「コント55号」と名付けられた。
二人の名は瞬く間に広がり、翌1967年2月14日には日劇の「西田佐知子ショー」にコメディーリリーフとして出演。以降、松竹演芸場の高座で新ネタを降ろし、練り上げて日劇の舞台にかけるといったパターンが続いた。テレビでは日本教育テレビ(NETテレビ 現・テレビ朝日)「大正テレビ寄席」に出演。余りに激しい動きをカメラが追いきれておらずスタッフに撮り直させた逸話を持つが、この番組の出演で全国的に売れ出し、1968年前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送「お昼のゴールデンショー」、続いてスタートした「コント55号の世界は笑う」で人気に拍車がかかった。この時、「同じコントは(テレビでは)二度とやらない」をキャッチフレーズにし、萩本を「タレ目」、これに対して坂上を「チッコイ目」と呼んで売り出した。
以降、テレビ、ラジオ、映画と多方に渡り活躍。時代の寵児となった。そんなある日、とあるタクシー運転手から「欽ちゃん、刑事さんをあまりいじめないでくれよ」と言われる。このとき、既に坂上は単独で俳優活動を行っており、TBS系の連続テレビドラマ「夜明けの刑事」で主人公の刑事役を演じていた。萩本は世間が坂上を萩本の相棒ではなく、一俳優として捉えていることを痛感。更に「(自分はただ仕事として相棒をいじってただけなのに)客には本気でいじめてると思われてる。」とショックを受け、コントを演じ続けられなくなったとして、1975年以降はコンビとしての活動を大幅に縮小し、現在に至る。
当人達はコント55号をコントコンビではなくユニットと位置付けている。萩本によれば「コント55号は始まりが無ければ終わりも無い」とのこと。故に解散はしていない。
- 現在、萩本は茨城ゴールデンゴールズの監督を務めており、その際の背番号「55」はコント55号が由来である。坂上もまた鹿児島ホワイトウェーブの総監督を務め、背番号もやはり「55」。