プロフィール
大学時代、音楽系サークルでドラマーとして活動してるうちに、プロミュージシャンを目指す。バンド『雷神』を組み、アマチュア活動をしていた。『ビートたけしのオールナイトニッポン』のリスナーであった義太夫は、ビートたけしのファンとなり弟子志願をするが、その際ドラムが特技であることを披歴し当時のたけしのバックバンド『シークレット・ポリス』に加入させる事にした。しかし実際には先にレギュラーメンバーのドラマーがいたため、パーカッションとして参加。その後たけし軍団が8人編成から10人編成へ移行する際、井手らっきょとともにたけし軍団に正式加入。ただし特徴のあるキャラクターからか、実際には10人編成の時期より以前に、『オレたちひょうきん族』や一連のバラエティ黄金期の番組に既に出演していた。名前の由来は、当時プロレスで“毒霧”を吹く謎のレスラーザ・グレート・カブキを揶揄して、風貌が太った体型でだらりとした長髪であった事も共通していたため、“歌舞伎”を“義太夫”と洒落て命名された。ただし近年はかなりやせて(本人曰く糖尿病が原因とのこと)ひょうきん族時代の風貌とはがらりと変わった。
『シークレット・ポリス』時代は、楽曲『浅草キッド』の作曲時にたけしにアドバイザーとして関わり、またライブアルバム『野戦病院~ビートたけし&たけし軍団ライブ』(1985年7月5日発売)収録の楽曲『バラード』の作詞作曲を行っており、陰のたけしの音楽ブレーンとしての存在面があった。ただしこれらの印税は太田プロサイドの判断で本人にはペイされていない。
その後たけしらとともに雑誌社フライデー襲撃事件にも参加した。その際、消火器を持って大暴れし、「たけし軍団の弁慶」とネタにされた。
一時期、顔が麻原彰晃に似ていた為、麻原彰晃の弟ではないかと都市伝説になった事もある。
オフィス北野に所属し、かなりの猫好きである。元 小結の國登國生は叔父にあたる。
ミュージシャン活動としては 1992年にたけしと宮沢りえが共演したエースコック・スーパーカップのCMソングの作詞、作曲を担当した。その他にも細川ふみえ『ポチにやつあたり』、中條かな子『ことばさがして』、日高のり子『十年後の私』等を作曲した。また『亀有ブラザース』では演奏を担当した。
近年は蜷川幸雄演出作品の常連。コメディ・リリーフとして重宝されている。2006年、『タイタス・アンドロニカス』の再演では、イギリスのロイヤル・シェイクスピア・シアターでの公演も経験。道化役を熱演す、観客の爆笑を取っていた。
事務所の後輩マキタスポーツのバンド『マキタ学級』のサポートギタリストでもあり、そのブルージィなギターサウンドはファンも多い。アルバム『金もうけ』では、スケジュールの関係でレコーディングにあまり参加出来ず、コーラスと『NEWS』という曲のギターのみとなっている。 2002年に長年の同棲相手と結婚したが、2006年に離婚している。
『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』の企画である「芸能人サファリパーク」ではなぜか半裸でトマトを出演者らに投げつけていた。