来歴
ドリフ入りまで
愛媛県新居浜市に生まれ、すぐに東京都に移る 塚田茂 『どんどんクジラの笑劇人生―人気番組で綴るテレビバラエティ史』 河出書房新社 1991年 51頁 。幼い頃両親が離婚し、物心つく前に母親に引き取られ小学校から高校卒業まで福島県福島市で妹と共に暮らす。学法福島高校中途退学後、1960年東京の叔母を頼って上京。
上京後、トロンボーン奏者を目指してスターダスターズのバンドボーイをやるが、ある日手当ての100円をマネージャーに催促したところ、マネージャーに100円を投げつけられ、頭に来てマネージャーと喧嘩してクビになる。その後、ドラマーとしてクレージーウエストにメンバー入りし、仲本コージ(現・仲本工事)と出会う。
1962年、碇矢長一(後のいかりや長介)と同時期に、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」にメンバー入り。
※以上は『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ)による。なお、さまざまな文献で年代や住所等の証言が食い違い、高校は卒業となっていたり、両親離婚後は父親と共に日本中を旅歩いていた等々の記述も見られる。どれが本当であるのかは不明である。
ドリフ加入後
1964年には、ドリフの初レギュラー番組『ホイホイミュージックスクール』にて、「加トちゃんぺ」のギャグが受け、一躍人気者となる。これは、付け髭の糊が剥がれやすかったために、度々2本指で押さえていたものがギャグとして通用したと本人が語っている。
1964年、ドリフ内部で発生したクーデター(詳細はドンキーカルテットとの分裂 を参照)の際、碇矢と共にドリフに残り、新生ドリフを立ち上げる。新生ドリフ結成直後、当時所属していた渡辺プロダクションの先輩・ハナ肇に「芸事で飯を食っていこうとするのなら、水に係わりのある芸名にした方がいい(サラスヴァティー・弁才天信仰からの連想と思われる)。お前は、みんなから、「加トちゃん」って呼ばれてるんだから、加藤茶にしなさい」と言われ、加藤茶となった。
1969年より『8時だョ!全員集合』(以下『全員集合』)にて、さまざまな一発芸をヒットさせ、1970年代前半には小学生の間でカリスマ的存在となる。この時代のトレードマークは禿げヅラにビン底メガネにちょびヒゲであり、現在タレントショップ等で売られている彼のキャラクターグッズも、それらを装着した姿をモチーフにしたものが多い。
社会や人間関係の縮図をディフォルメした初期のコントや映画に於いては、お笑い(いつも損をする役、イジメられ役、笑われ役)の中心で、ドリフメンバーの中で最も持ちネタやギャグが多かった。特に1972年から1973年までの間『全員集合』で毎週たった一度だけ「タブー」の曲に合わせて踊る「ちょっとだけよ」は大ブレークし日本のコントの歴史に残るギャグとなる。
この頃付き人兼居候として志村けん、運転手としてすわしんじ(現・すわ親治)が加藤の下についた。
新生ドリフは、『全員集合』終了までソロ活動を行なわせなかったといかりやは語っているが、加藤のみクレージーキャッツの植木等と映画で共演していた。
志村の人気がブレイクした後は一手にギャグを受け持つ存在から、志村とのコンビで笑いを生み出す存在へと立ち位置を変化させた。このことが、『全員集合』の後番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『KATO&KENテレビバスターズ』へつながっていく。
『全員集合』終了後
『加トケン』終了後は単独でバラエティ番組に出演する傍ら、俳優業にも進出。NHK新大型時代劇の『武蔵坊弁慶』ではそれまでのイメージを覆す、非常にシリアスな役を演じた。また「加トちゃんBAND」、「こぶ茶バンド」を率い、お笑いだけでなく、本来の持ち芸であるミュージシャンとしての活動も活発化させた。
2003年3月に1987年11月に結婚した夫人と熟年離婚したが、病気療養中のいかりや長介に心配をかけないようにとの心遣いから、このことはいかりやの死後まで公表しなかった。最近はバラエティ番組においても「家に帰っても誰もいないんだよ」などと自らの離婚をネタにしたトークを繰り広げることが多くなった。特に「行列のできる法律相談所」において離婚を決意した日のことを語ったときにはあまりの内容の重さに司会の島田紳助から「その続きは『その時歴史が動いた』でやってもらいましょ」といわれるほどだった。
2004年、いかりや長介が死去したことにより、ザ・ドリフターズの最古参メンバーとなった。いかりや長介の葬儀の際には、最古参メンバーということで、年長の高木ブーに代わって弔辞を読んだ。この中で、加藤は「これからオレたち4人で、ドリフターズ、やっていくよ。あんたが残した、財産だからね。(中略)あ、でもそっちからいきなり「全員集合」って言われても、俺たちすぐには行けないからね…」と語りかけた。
2006年10月30日、微熱と体のだるさが1か月以上続く体調不良により緊急入院。同年12月のこぶ茶バンド公演も出演中止が決まった。病名は、“Stanford A型大動脈解離”であると本人が2006年12月26日の会見で発表、生還を果たしリハビリ中であることを語った。実際の会見では「Standard A型大動脈解離」と言い間違えている。 加藤の場合、過去に冠動脈ステント挿入術の経験があり、この関係で抗凝固剤の服用をしていたために、緊急手術が必要な症状だったにもかかわらず、薬の効果が弱まるまで手術に踏み切れなかったようである。加藤の術式はこの冠動脈治療も同時に行うためにバイパス術も同時に行われ、かつ抗凝固剤によるリスクを最小限にするために低体温にしての施術となり、通常の上行大動脈置換術より難易度が格段に高く、3時間近い心停止と人工心肺使用を伴う10時間にわたる長時間の手術となった。 この際に看病してもらったのは、熟年離婚した元妻であった。記者会見の際にギャグを求められ、「加トちゃんペッ!」をした。またこの手術により、長年AB型だと思っていた血液型が、検査により本当はA型であると判明した(2007年5月15日放送の『ごきげんよう』より)。仕事復帰は困難とも言われたが、わずか4ヶ月で鬼嫁日記 いい湯だなに出演する形で復帰した。