略伝
父は喜劇役者で幼少から芸事に触れる。1958年、宝塚映画の大部屋に入るが1年で退社。花菱アチャコに師事、師匠の薦めで1959年4月に吉本新喜劇へ第1期生として入団。入団当初は本名の「市岡輝夫」のまま吉本新喜劇の前身である吉本ヴァラエティやステレオコントの舞台に上がる。1960年に一時漫才に転向し浅草四郎(当時四郎は相方が亡くなり相手を探していた。)コンビを組むが1966年四郎死去、その後役者に諦めきれず復帰して座長に就任、主に花紀京、船場太郎、山田スミ子、原哲男、のちには木村進、間寛平らと共に活躍した。その風貌から「奥目の八ちゃん」と親しまれ、「くっさー」、「えげつなー」、「隙があったらかかってこんかい!」等のギャグを多数持つ。そのギャグは定番として、いまだに明石家さんまなどが演じている。新喜劇では、調理帽をかぶった昔ながらの大衆食堂の店主、はちまきにシャツ、腹巻、ニッカボッカの工事現場の労働者などといった出で立ちで登場。"二枚看板"の花紀京とは特に息の合ったかけあいを披露して、大阪庶民の笑いと涙を誘った。
舞台上での立ち振る舞いとは違い、実は極度のあがり症で、緊張を紛らわすため出番前にお酒を飲むことが多かったという。また私生活でも「一にも二にも三にも健康法は酒です」と本人が語る程の酒好きであった。これが祟り、長年アルコール依存症を患うこととなる。またアルコール依存症の他にも私生活でのトラブルも多く、30歳で結核を患い、1993年には胃がん、1995年には急性膵炎、1996年には自宅で転倒し脳挫傷に、さらに妻の自殺、長男(アルコール依存症だった)の急死と不幸が続いた。アルコール依存症克服後も娘の市岡裕子に会いに渡米した帰りの機内で飲酒し、これを知った市岡裕子に絶縁を宣言されたこともあった。また脳挫傷の後遺症は記憶障害という喜劇役者としては致命的なもので、台詞が覚えられず、以後事実上の引退状態になってしまう。しかし舞台に立ちたいという本人の意志は強く、2002年12月18日に芸能生活45周年記念リサイタル「岡八我王(ガオー)伝説」をなんばグランド花月で行った。この公演では弟子のオール阪神・巨人の巨人らとの新喜劇、帰国した市岡裕子との父娘漫才を披露した。
2003年には心機一転、芸名を「岡 八郎」から「岡 八朗」に変えるなど、舞台に対する意欲をみせていたが、2005年7月27日肺炎による呼吸器不全のため、兵庫県尼崎市内の病院で亡くなった。戒名は笑輝院一道禅圓居士。
亡くなる直前の2005年7月16日には大阪市で開いたオール阪神・巨人の漫才コンビ結成30年記念公演に出演。舞台では阪神・巨人、けんた・ゆうたらの思い出話を披露した。これが最後の舞台であった。