経歴
東京市出身。活動写真の弁士を目指し、独学で1916年に外国映画の弁士としてスタート。きっかけはその年の徴兵検査で甲種合格したことで兵役から逃れる為だったという。喜劇専門の弁士として活躍。独特の奇声で喋る『勝手知ったる他人の家』、『胸に一物、手に荷物』、『ハラハラと落つる涙を小脇に抱え』といったフレーズで一躍、人気弁士として躍り出る。その頃、同じく弁士として第一線で活躍していた徳川夢声と出会う。
夢声をして天才と言わしめるほど話術で観客を笑わせ、また本人も弁士としてよりも独立した喋りで寄席に進出する事を考える。1923年に発生した関東大震災で東京に映画館が使用不可となったことから、弁士が一時休業状態となったのを機に、夢声や3代目柳家小さんの後押しで、漫談の言葉を作り、1924年に漫談家として再スタート。これに続き西村小楽天、井口静波、牧野周一といった失業した他の弁士も漫談家として出発する。1926年に夢声が音頭をとり、古川緑波、山野一郎と共にナヤマシ会を結成。この会は1932年までに9回公演し、大辻は天才的な即興芸で観客を大いに湧かせた。1933年には緑波、夢声と共に笑の王国を結成した。
1952年3月31日、旧活弁仲間による活動大写真を偲ぶ夕に司会役として出席、ここでも大いに湧かせたが、4月9日、大阪へ向かう途中、搭乗した日航機・もく星号が三原山に墜落し他の乗客とともに死去した(もく星号墜落事故)。