略歴
三洋電機に数年間勤務した後、芸能界入り。1968年に正司玲児らと音楽ショー「ピスボーイ」で「中井次郎」の芸名でデビュー。その後、海原小浜門下に入り「海原めぐる」と芸名を変え、三洋電機時代に知己を得ていた海原かける(海原小浜の息子で、海原やすよ・ともこの父)と漫才コンビ「海原かける・めぐる」を結成。ケーエープロダクションの本拠地であった寄席劇場・梅田トップホットシアターを中心に活躍していたが、1977年(昭和52年)に、海原かける廃業にともない同年吉本興業へ移籍し吉本新喜劇に入団、「池乃めだか」に改名した(名付け親は桂三枝)。
新喜劇入団後、長い間セリフのほとんどない脇役ばかりを演じていたが、間寛平との掛け合い(猫vs猿の喧嘩)で人気に火がつき、その名が知れ渡るようになった。1980年代後半、吉本本社による「新喜劇やめよっカナキャンペーン」で看板役者が次々と降ろされていく中、桑原和男、中山美保らと共に残留、その後若手育成の為座長に就任した。1995年、内場勝則、辻本茂雄、石田靖の3名がニューリーダー(1999年から吉田ヒロも加えて「座長」と呼び方を変更)に就任したのを受け、座長を卒業したものの、その存在感や人気は現在でも現座長たちに決して引けを取らない必要不可欠な存在の重鎮である。借金過多で吉本新喜劇を追放された帯谷孝史とともに、すでに99年には新喜劇の行く末を案じていた(40周年記念本「ゲラゲラ・ハッピィ」での発言による)。
その後も重鎮として活動し続け、新喜劇では2006年に小籔千豊が新座長が就任。その小籔のメインイベント「コヤブ新喜劇」のフリートークコーナーでは、「もう新喜劇も引退かなと思ってたところに小籔みたいなのが出てきたから、あと2、3年頑張ってみようと思う」と、ファンにとっては衝撃的な発言をしている。