来歴・人物
1981年浪速高等学校、1986年同志社大学文学部国文学科卒業。2000年に母校の同志社大学大学院総合政策科学研究科に入学、修了。清水圭とお笑いコンビ「清水圭・和泉修」(圭・修と略称)を結成し、吉本興業に所属。コンビ結成から吉本期待の若手として将来を嘱望され、一時はダウンタウンのライバルと見なされることもあった。その後圭が活動の拠点を東京に移し、修もピンで活動。大学の修士課程で学びながら芸能活動を続ける。2001年9月18日、圭・修を解散しベイブルース高山知浩(現・高山トモヒロ)とお笑いコンビ「ケツカッチン」を結成。
芸人を志す前はアマチュアボクシングの一流選手だったことでも知られる。高校時代はインターハイのフェザー級で優勝、大学時代はキングスカップ全日本代表選出、ロスオリンピック候補選手などの経歴を持つ。フェザー級の常識を越えた長身とリーチで相手を圧倒し、数々の勝利を手にした。
芸能界である程度の地位を築いた後の1990年にはウェルター級でプロデビューし、二試合を闘った(2戦2勝、共に判定勝ち)が、長期ブランクや年齢の影響、体重がベストウェイトからほど遠かったこともあり、その試合内容はアマチュア時代の彼を知る者の目には無惨なものに映った。しかし和泉は芸能界において初心に返るためという目的意識のもと、プロボクシングに挑戦したのであり、過酷な練習や減量に耐えて闘った二試合は、彼にとっては価値のあるものだったといえる。
ちなみに、浪速高等学校でのボクシング部の先輩が、赤井英和であり、長年に渡る交友がある。赤井の世界タイトル挑戦試合ではセコンドの手伝いをした。この試合のTV中継の際、試合前の控え室レポートにおいて、和泉の小指を自分の鼻の穴に突っ込んで鼻くそをほじくる赤井の姿が映し出されている。
赤井の芸能界入り後は、毎日放送系「なにわ友あれ赤井英和」他、数々の番組で競演している。
2005年4月1日、大阪産業大学人間環境学部の客員講師に就任する。
2005年11月12日『ゲツキン!』(読売テレビ)で北朝鮮に泳いで渡った元オウム真理教信者の北川和美について「あんなにだまっとったら使いもんにならんで。」とコメントしていた。
2007年6月13日夜に男児が誕生した。「嫁に似て欲しかったのですが、僕似です。“僕より一歩先を行く”、正しい男になって欲しいです」とコメントしている。