経歴
東放学園専門学校在籍時代から番組制作に携わり、当初は裏方を志していたがMC役を任されているうちにタレント業に興味を持つようになる。小堺一機、関根勤の下積み時代のライブにも裏方のバイトとして参加経験がある。素人時代に出場したフジテレビ「発表!日本ものまね大賞」での敢闘賞が認められ、ホリプロにスカウトされる。高校時代の友人を強引に相方に誘い、1986年コントコンビキッドカットを結成。ホリプロお笑い部門の第1号タレントとして、数多くのバラエティ番組のオーディション大会で優勝するなどの活躍を見せる。レギュラーも決まり出し順風満帆に思えたが、度重なる遅刻癖が原因で相方が事務所に解雇され、1990年にコンビ解散となり、ピン芸人としての活動を始める。
コンビ時代からホリプロのアイドルイベントで前説や司会を担当していたことから、学研の雑誌「Momoco」でデビューしたてのアイドルと対談するコーナーの連載が決まる。そこで何かペンネームを付けようとなり、客いじりが上手いからペンネームは『イジリー岡田』、コーナーのタイトルは『イジリー岡田のアイドルいじり』に決まる。最初はあくまでペンネームだったが、コーナーの人気が上がるにつれ事務所もその気になり、あくる日、電話で怖い上司に「明日からお前はイジリー岡田だぞ!問題ないな!」と一方的に通告され正式芸名が決まってしまう。イジリー曰く「そんな最低な名前、嫌に決まっているじゃないですか!」
ギルガメッシュないと
改名して数週間後、ゴールデンを狙うための足掛かりに、あくまで3ヶ月の予定で伝説の深夜番組、『ギルガメッシュないと』(テレビ東京)のレギュラーに抜擢される。萩本欽一を尊敬し、下ネタ嫌いを公言していた本人の気持ちとは裏腹に、番組は午前2時台にも関わらず5%以上という深夜枠では脅威的な高視聴率を叩き出すことになり、結果的に放送は91年10月から、98年3月終了までの6年半も続いてイジリーは自他共に認める日本一のエロタレントのジャンルを確立することになる。
- 最初はあくまで都内のデートスポットや流行の映画・芝居を紹介するお洒落な情報番組だったが、イジリーの出番だけ「AV女優のお宅訪問」であった。
- 番組企画の一環として、1993年12月にはAV女優の憂木瞳とデュエットしたシングル、『マンゴ・ナタデ・ココ』(ポニーキャニオン)をリリースしている。ちなみにノーギャラであった。
ギルガメッシュないと終了
『ギルガメ』終了後は、事務所の命令で下ネタ封印や子供向け特撮番組出演やHIPのイベントの司会を務めるなどのイメージ改革に取り組むが、2001年「27時間テレビ」深夜枠「裏めちゃイケ」で冒頭から陰核を連想させるギャグを連発する型破りな司会ぶりが業界内で伝説化され、本格的なエロ芸解禁となり現在の活躍に至っている。ただしギルガメ終了直後の1998年の27時間テレビの深夜コーナーで司会をした際にはエロならおまかせと言いながら登場するなどノリノリで司会をしていた。
- 『ギルガメ』終了後もその影響は未だに根強い。NTV系「まねキン」ではお台場のパレットタウン、ヴィーナスフォートにロケの立ち入りを禁止されていた。
- AV男優と誤解される事も多く、たまにアダルトビデオへの出演オファーがある。
番組収録中に骨折
2008年3月、日本テレビ系「ものまねバトル47! そっくり軍団大集合オール新ネタ春祭り」で新潟県のスキー場でのロケ中に、竹内結子のモノマネをした際に右肋骨と右足首を骨折。その後のスタジオ収録には松葉づえで臨んだ。全治一ヶ月だったとされる。