概説
照夫の父は浪曲師兼興行師で、兄も浪曲師。地元の天狗連(素人連)では天才少年浪曲師として知られ、1948年二代目東洋軒雷右衛門に正式入門、東洋軒雷坊の名を許され初舞台を踏む。14歳で座長昇格し独立、一座を率いて旅回りに出るが、変声期で喉を傷め一時引退していた。
1954年に曲師・暁照雄として再起したところ、歌謡浪曲路線を目指していた四代目宮川左近に声を掛けられ、松島一夫、高島和夫と共に宮川左近ショウを結成した(同時に「照夫」に改名。程なく高島が脱退し3人になる)。
1972年「第7回上方漫才大賞」受賞するなど、上方演芸界で大看板を張るが、宮川左近の病死に伴い1986年トリオ解散。その後弟子の光夫と音曲漫才コンビ暁照夫・光夫を結成したが、左近ショウの印象が強烈過ぎたり、光夫が舞台上で師匠に対して遠慮勝ちだったりで、始めの頃はなかなか受けなかった。
照夫は浪曲三味線の屈指の上手として知られる。ひとしきり早弾きを熱演した上で、「なんでこんなにうまいんやろ」と自惚れるギャグは、左近ショウ以来の定番であるが、正式に撥を使わぬ爪弾きであるため一種のギミックとして成立している。