来歴
1940年頃、父である浅田家日佐治(浅田家日佐丸(平和ラッパの兄)とも)門下で小日奈を名乗り17歳で和歌山県有楽座で初舞台。その後ミスワカナ(ミスワカナ・玉松一郎)のところにおり、一時期室町京子と名乗って歌手として活動したこともある。
その後漫才に復帰して吾妻ひな子と名乗り、浮世亭夢丸や浮世亭夢若亡き後の松鶴家光晴(松鶴家光晴・浮世亭夢若)らとコンビを組んだ。
1964年頃から三味線を手に一人高座に転向。甘えたような語り口でカマトトを売りとし、世相を風刺した話芸で人気者となる。
その真骨頂は三味線を弾くと見せかけて弾かずにしゃべり、しゃべっていたかと思うとおもむろに撥を構えるが、やっぱり弾かない、という洒落っ気のある芸風であった。しかし、次第にその洒落が若い世代には通じにくくなり、高座から遠ざかるようになってほどなくひっそりと亡くなった。
高座を降りる時の締めくくりは「あることないことおんな放談。良くぞご辛抱下さいました。おかげで日当になりました。ハハー、ノンキだね」とノンキ節で終わるというものであった。
第7回上方演芸の殿堂入り。